こんちはニッチマンです。鬼滅の刃の大ヒットの影響なのか、今『鬼』が密かなブームだそうです。スゴいな鬼滅の刃。。。日本各地に残る鬼の伝承。
『所ジャパン』でも紹介するそうでその中に非常に気になるお話があるんですよね。
さらに京都屈指の観光スポット・清水寺にも鬼伝説が!平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂は鬼退治を命じられていた!?お寺に残る石碑に秘められた日本一“悲しい"鬼退治の物語とは? ヤフーテレビ欄より引用
京都というと鬼の伝説が数多くある地。うろ覚えで知ってる限りでも大江山の鬼の伝説に茨木童子が腕を取り返しに来たお話などなど。
でも清水寺ゆかりの鬼の伝説って初めて聞いたんですよね。ちょっと気になったので調べて見た所、どうやら史実に基づく『歴史上の鬼』お話だったようです。
清水寺に伝わる石碑に記された人物『アテルイ(阿弖流為)』と『モレ(母禮)』
清水寺に1994年に建立された『アテルイ』と『モレ』の碑をご存じの方はそう多くないと思います。清水寺といえば舞台があまりにも有名でこの小さな碑を訪れることは稀ではないかとおもいます。
アテルイとモレは蝦夷地の首領と副将であったとされ、征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷討伐の時に朝廷の侵攻を防いだ名将として知られています。
多く出てくる話では『巣伏の戦』での戦果を取り上げられることが多いが文献にはアテルイが指揮していたとされており、朝廷軍を挟み撃ちにする形で大打撃を与えこれに勝利しています。
しかし坂上田村麻呂が胆沢(岩手県奥州市)の一部を制圧し城を立て始めると部下500人と副官のモレを引き連れ投降。これにはすでに蝦夷地のいくつかは朝廷に制圧され自身の立場が進退極まり、これ以上の交戦は朝廷、蝦夷どちらも少なくない被害を出すとの判断からと言われています。
そのアテルイの英断に関心した坂上田村麻呂はアテルイに一目置くようになり、彼らを組み入れてのですが、朝廷の下へ連れられてきた彼らを待っていたのは処刑でした。
坂上田村麻呂は彼らに温情を与え、朝廷に仕えさせて蝦夷地を治めさせる事を提案し命を助けようとしたが、公卿達から謀反の恐れが有る。虎のような危険なものを養っては災いの元と反対されアテルイとモレの二人は現在の大阪である河内国の杜山にて斬首刑に処されます。現在、枚方市にある牧野公園には二人の塚が建立されています。
現在も大阪にはアテルイの首塚やどこかに胴塚もあるとの話もあるのですが真偽の程は不明とのこと。
アテルイとモレは鬼だったのか?日本一悲しい鬼退治の物語
もちろん両名とも人間です。しかし歴史の強者にとって都合の悪いものは滅ぼすべき『悪』に仕立て上げられる。。。過去からそういった話は数多くあります。
ときには鬼とよび、時には土蜘蛛、時には鵺・・・・多くは蝦夷族のことであったとされています。
有名な桃太郎伝説も一説によると大和朝廷の豪族討伐の話とされていますし、大江山の鬼退治も同様に異民族討伐の話という説もあります。
以上のことからもわかるとおり、日本一悲しい鬼退治の物語とは人で有りながら鬼として成敗された人の物語なのかな?とおもいます。
また、アテルイとモレは地元の人々にも大切に思われており、岩手県北上市の市民憲章に『 あの高嶺 鬼住む誇り 音の瀬音 久遠の賛歌 この大地燃え立つ命ここは北上』と読まれるほど。
何故清水寺にアテルイとモレの碑ができたのか?
遷都1200年記念の際にアテルイとモレの故郷である胆沢の人々からの嘆願により1994年に建立されます。当初、蝦夷地の人々は降伏したアテルイとモレを帰らぬ人にした人物として田村麻呂を恨んでいたそうです。
しかし歴史が紐解かれて行くなか、田村麻呂にとっても苦渋の決断であったことがわかり有志の人々の手によって田村麻呂ゆかりの清水寺に建立を申し出た所、清水寺も快くこれを承諾。
こうしてアテルイとモレの碑は清水寺に建立されたというわけです。
まとめ
日本一かなしい鬼退治の物語について調べてみた所、東北の首領アテルイとモレの話が見つかりました。古くから蝦夷は鬼と朝廷に呼ばれていた事もあり鬼退治の物語となっていたようですが番組ではどの様にしょうかいされるんでしょうね?放送を楽しみに待ちましょう!