
こんちはニッチマンです。
今の世の中に生まれて本当に良かった・・と思えるお話があります。みなさんは自分が見世物になった事を想像した事はあるでしょうか?そう古くない過去に、『奇跡の5つ子』として有名になり、ものすごい金額の収益を出したにも関わらず、当人にはそれほど入ってこなかった人たちがいます。
プライバシーの切り売り、一部ではインスタグラムやYou Tubeなどでそのように感じる事もありますが、ここで紹介するお話は本人たちが望まなかった結果として見世物にされた姉妹のお話です。
カナダ・オンタリオ州で実在した姉妹『ディオンヌの姉妹』について調べてみました。
ディオンヌの姉妹・兄弟や五つ子の誕生
ディオンヌの姉妹は、1925年に結婚した父のオリヴァ・エドゥアールと母のエルジール・ディオンヌとの間に誕生します。彼らはコルベイユ郊外で農家を営んでいました。
ディオンヌ家はフランス語圏にある農家で今回紹介する『奇跡の5つ子』以外にもエルネスト・ローズマリー・テレーズ・ダニエル・ポーリーヌの5人の兄弟がいました。
更に五つ子の弟妹に当たる人物もオリバ・ジュニア、ヴィクトル、クロードの3人がいています。総勢13人の大家族ですね。
五つ子を妊娠中、エルジールは双子の妊娠を疑っていました。この時は誰も五つ子が生まれるとは一切思っていなかったそうです。五つ子は2ヶ月の早産で生まれました。
後にエルジールが語った事によると実は五つ子ではなく六つ子で一人だけ流産していたそうです。
母親の胎内でアネットとイヴォンヌが同じ胚嚢を共有し、エミリーとマリー、そしてセシルが流産したもうひとりの子供と胚嚢を共有していたそうです。其の裏付けとして、セシルだけ他の四人とは逆向きのつむじを持っていました。
アネット・リリアン・マリー・アラード(リビング)
セシル・マリー・エミルダ・ラングロワ(リビング)
エミリーマリージャンヌディオンヌ(1954年死去)
マリー・レイン・アルマ・ホール(1970年死去)
現在存命しているのは次女のアネットと三女のセシルのみとなっています。
出産時、五つ子の総体重はわずか6.07kgの超未熟児であり、母親は出産のショックで一時期危篤状態になったが持ち直しました。記録によると赤ん坊はオリーブオイルでマッサージされ、牛乳、白湯、コーンシロップ、そして信じられない事に気つけとしてラム酒を1,2適与えていた。
おそらくは当時としては常識適な民間療法だったのではないか?とおもわれます。
この出産のニュースは新聞社を通じてまたたく間に広がります。この時なぜ新聞社が直ぐ情報を手に入れたかは彼女らの叔父に当たる人物が一回の出産で5人の赤ん坊が生まれた場合いくら請求するのか?と新聞社に問い合わせた事に端を発した。
この事で全米各地やトロントなどから支援物資や金が集まりだす。
奇跡のディオンヌ五つ子姉妹は両親と別れ後見人の保護下に
当時、『インキュベーターベイビー』、つまり保育器の中に赤ん坊をいれて展示するのは、例えば医学的なフェアなどのイベント、もしくは保育器など紹介などで展示される事は少なからずあった。
時は世界大恐慌時代。貧しくはないとはいえ、ディオンヌ家は田舎農家であった。今後の医療費などの支払いに悩んでいる時に、シカゴ万博の出展者の一人からオファーがあった。
それはディオンヌ姉妹を万博の見世物にする代わりに、多額の金銭を賄うというもの。
両親は出産に立ち会った医師と町の神父に相談すると同意するように助言を受ける(人道的観点からは悩ましいがやはり地獄の沙汰も金次第ということなのだろう)
しかしその後、父親は後悔して契約を妻の署名が無いことを理由に取り消そうとするが、出展者側はこれを拒否。
シカゴ万博も迫る中、五つ子の体調は決していいものではなかった。興行主との契約の履行が迫る中、両親は苦肉の策にでます。オンタリオ州司法当局に相談し有る解決策を提示してもらった。それは赤十字に五つ子の親権を2年の期限付きで譲渡する。赤十字からは医療費や五つ子に関わる人件費、更には病院まで保証される見返りを同時に得ることができた。
興行主側は親権が赤十字に移った事で五つ子絡みの要求を赤十字に訴える事ができなくなった(契約は赤十字としたわけではない為)
其の数カ月後、オンタリオ州の首相から両親の永久的な養育権の剥奪と五つ子が成人(18歳)するまでは国が後見になるという法案が出された。後の後見人はダフォー博士、ジョセフ・ヴァラン、デイビッド・クロール福祉大臣の3人。これにより五つ子が大人たちに利用されないようになる。。。はずであった。
しかし新たに任命された後見人達は、五つ子を利用して金儲けを始めたのだった。
カナダ奇跡のディオンヌ五つ子姉妹はダフォー保育園で見世物に
彼女達の為に新たに立てられたのは保育園兼病院であった。場所は彼女たちの生家から道を一つ挟んだ場所。当然、他の両親や兄弟はいぜんとして生家で生活していたが、めったに姿を見ることもなかった。
ダフォー保育園病院での彼女たちはまるで見世物小屋、動物園の飼育動物のように、毎日見物客にそのプライベートをさらされていた。
保育園内に彼女達を見世物にする為の施設の建造。これは彼女達が日に2回屋外で遊ぶ場所を設け、其の周囲に『観覧の為の通路』をめぐらし一日に何千という人に見物させていた。
現代のアミューズメントパークの出口よろしく、観覧通路を抜けると其の先にはホットドックスタンドや土産物屋が並ぶようになった。しっかりと父親のオリヴァも出店していた。
そして観光客の入りが確実なものとなると、近隣には宿泊用のモーテル迄立ち並ぶようになり、なんとオンタリオ州は車で観光に来る人が多いことを知るとガソリン税迄上げたという。
この一連の商業スペースとかしたダフォー保育園兼病院は『クィントランド』つまり5つ子の国と呼ばれ、その人気はなんとナイアガラの滝を上回るとさえ言われていた。
土産物屋には五つ子のブロマイド・スプーン・カップ・キャンディバー・本・ポストカードなどが並びオンタリオ州観光収入で5000万ドル以上をもたらした。
そうして集まったいわゆる『五つ子ビジネス』のお金は彼女たちの為の基金に収められるはずだったが、其の一部は不正に抜き取られていた。本来であれば自ら賄うべきである区分の病院の光熱費や『クイントランド』用の公衆トイレの設置や視察に来た医者への接待ディナー費等に使用されていた。
父親からの性的虐待疑惑があった?
ダフォー保育園病院で両親と別れて暮らしていた彼女たちであったが、長年両親が一緒に暮らしたいと嘆願しており、ついに10年越しの1943年に同じ屋根の下で過ごす事ができるようになった。
この時両親は新しい家族を迎えるにあたり、家を新築にした。もちろんこのお金は『五つ子基金』から賄われたものだった。当時としては最新の電話・電気・お湯などを使える設備があり、部屋数も20部屋にも登る豪邸であった。今現在もその大きな建屋は老人ホームとして機能している。
尚、彼女たちが過ごしたダフォー保育園病院はその後学校へと改装され、最終的には修道院となった。
両親とその他の兄弟と五つ子、家族全員がそろい幸せになれたか?というと決してそうではなかった。両親からしばしば虐待を承け、他の兄弟とは別の扱いをうけていたと主張している。
また、五つ子のうち3人からは父親からの性的虐待を10代の頃に受けたと主張しているが、他の兄弟はそれを否定している。姉妹の一人のアネットは父親の虐待の事を学校の司祭(当時姉妹が通っていたカトリック系の学校)に打ち明けたが司祭はこの事を問いただす事で姉妹は学校へ行くことを許してもらえなくなり状況が悪化するのではないか?との懸念があったそうだが真相は謎のままである。
年を重ねる毎に徐々に姉妹に対する関心は世間から薄くなってきたがそれでも根強く新聞などのメディアが彼女達のプライバシーを報道し続けた。多感な年頃の14歳の頃には姉妹一人ひとりの体重を掲載されている。
そしてこの頃からエミリーに癲癇の症状が出るようになった。
ディオンヌ五つ子姉妹のその後と現在
大人になった彼女たちは18歳になった時に実家をでている。その後両親との接触はほぼ無かったとの事。その後の各々については以下の様に。
イヴォンヌとセシルは同じ看護学校へ通い、マリーとアネットは大学へ進学。
五つ子の内、3人は結婚して子供を設けます。マリーは二人の娘、アネットは3人の息子、セシルは5人の子供をもうけます。
エミリーは前述の通り、19歳で死去、残るイヴォンヌは看護学校を卒業後に芸術の道へ進み彫刻家として活動、その後は司書となります。
1970年頃に夫と別居中のマリーが自身のアパートにて死亡。死因は脳にできた血栓とも、うつ病を患っていたのが原因とも言われています。
1990年頃になると生き残った3姉妹は同じ場所にすみ、モントリオール郊外のサンブルーノ=ド=モンタルヴィルで一緒にくらしていた。
2001年にイヴォンヌがこの世をさり、(2019年時点の情報では)アネットとセシルのみが存命。
五つ子基金の行方は?信託基金は奪われていた?セシルの息子ベルトラン・ラングロワが持ち逃げ?行方は?
ナイアガラの滝より観光名所だったディオンヌの五つ子姉妹。その収益は莫大な金額になっている・・・と思いませんか?実は残された姉妹に渡ったお金はそれほど多くはなく、1990年代を生きた3姉妹は慎ましい生活をしていたそうです。
セシルの息子のベルトラン・ラングロワが過去にあった不正などを調査。その結果基金が横領されていることを突き止めます。
政府主導の基金であった為、世論がこれを助けカナダ政府は彼女たちに400万ドルの和解金を得ることに成功します。
しかしこの中で特に悲惨なのがセシル。和解金を得る為に奔走した立役者とはいえ、なんとそのセシルの取り分を持って姿を消してしまい、現在も行方はしれない。
その為、セシルは国の保護のもと国営の老人ホームで余生を送っている。
マコーギー7人兄弟への手紙
1999年頃、現代版の彼女達いうべき人たちに手紙を送ります。マコーギー家の7人兄弟として海外メディアで有名な兄弟。彼らの両親ボビーとケニーへの手紙を送りました。
それは自分達の経験から子供たちの為にあまり多くの宣伝等の許可をしないでという願いでした。
手紙の内容は次の通り
ボビーとケニーへ
私たちが大人になってからずっと求めてきたプライバシーを一時的に抜け出すとしたらそれは マコーギー家にメッセージを送るためだけのものです 私たち3人は あなた方の子供たちに 自然な親近感と優しさを感じていることを 知っていただきたいと思います あなた方の子供たちには 私たちがした以上の敬意を持ってもらいたいと願っています 彼らの運命は他の子供たちと何ら変わらないはずです。多胎出産を娯楽と混同してはいけませんし、商品を売る機会にしてはいけません。
私たちの生活は、私たちが生まれた場所であるオンタリオ州の政府の手で苦しんだ搾取によって台無しにされています。私たちは、何百万人もの観光客のために一日に3回、好奇心として展示されていました。今日まで、私たちは世界中から手紙を受け取っています。私たちが耐えてきた虐待に照らして、彼らの支持を表明したすべての人々に、私たちはあなたに感謝します。そして、これらの子供たちの名声の高まりを利用しようとする人たちには、注意してください。
私たちの人生が幼少期の経験によってどのように永遠に変化したかを検証することで、教訓が得られることを心から願っています。もしこの手紙が新生児たちの進路を変えることになれば、私たちの人生はより高い目的を果たすことになるかもしれません。
敬具 アネット、セシル、イヴォンヌ ディオンヌ
同じ轍を踏ませたくないという彼女たちの気持ちが伝わりますね。
まとめ
如何でしたでしょうか?当時としては珍しい、もちろん現代でも稀なケースだと思いますが、数奇な五つ子の人生。当時まだまだ人権だとかそういった関心が薄かったのが良くわかります。
現代で同じことが起きるとものすごい問題になるでしょうね。後に出てきたマコーギー7兄弟も時代が違えば彼女たちと同じ運命だったのかもしれません。
プライベートを晒し切り売りしていくのを今から数十年前に体験した彼女たち。彼女たちが体験したことは今の若い人に対しての教訓になるのかもしれませんね。以上です!