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岡山県岡田更生館の館長の名前や裁判記録は?倉敷市真備町岡田地区の悲劇
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こんちはニッチマンです。

 

戦後間もない頃の悲惨さをこの世に残す資料沢山ありますよね。今風化が危ぶまれている事件の一つに岡田更生館が上げられます。事件からすでに70年以上経過していて、当時の事をリアルタイムで知る人も少なくなってきたそうです。

 

岡田更生館事件は昭和の中でも指折りの公的施設での不祥事だと思われます。しかし調べて行くと、いくつかの疑問点が出てくるのです。

 

この事件で亡くなった方は72人~76人に及ぶとされ、当時の新聞でもかなりセンセーショナルな見出しで世間を騒がせました。それもそのはず、新聞記者が決死の潜入ルポを行い、その状況を暴いて報じたのです。

 

これだけの事件を起こして置いて不可解な事も・・・今回はこの岡田更生館について調べてみました。

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岡田更生館事件

この事件の現場となったのは岡山県真備町岡田地区にかつてあった県立の公的施設『岡田更生館』。更生館というのは戦後GHQの命令により、治安の問題を解決するという名目で全国に建てられた浮浪者の強制収容所の事。その数は62に登る。岡山県には当時3つの収容所があり、その中でも岡田更生館は大規模の収容所だったと言われている。

 

その更生館の中で、リンチなどの体罰や劣悪な生活環境などで72名~76名の被害者を出し続けていたという。過去に一度だけ脱走者が九州の大牟田でこの施設で行われている事を訴え、福岡県警から岡山県警に調査依頼を出したが問題無しと判断されている。

 

この事件が世に出たきっかけは収容されていた『北川』と名乗る男が脱走し、大阪の毎日新聞社にタレコミをしたことから自体は急転する。

 

大森実記者と小西記者の潜入記事で公に。

北川のタレコミを受けて、その情報を元に毎日新聞の記者である大森実と小西記者の2名は事件について詳細を調べだした。北川の話の内容があまりにも荒唐無稽に思えたのも事実で疑いの心があったのは想像に難くはないだろう。

 

現地へ趣、県庁などで聞き込みをするも怪しい評判はない。それどころか住民は『模範施設』との認識であった。これに困った大森記者は一度岡山支局に戻り新聞を調べ直すと一つの新聞記事を見つける。

 

前述したが、大牟田での脱走者の証言により警察の調査が入ったがその事実を確認できなかったというもの。流石に怪しいと思い潜入取材に踏み切ったという。

 

大森記者は後にベトナム戦争の報道で活躍したジャーナリスト。自伝に『エンピツ1本』などの著書もある。この中でも岡田更生館について書いている。

 

大森記者はこの潜入取材を外国の白人ジャーナリストの起こした行動をヒントにひらめいたらしい。彼は取材を成功させ後に『ピュリッツァー賞』を受賞している。

 

彼らは更生館近くの農家を訪れ、中にはいる方法を模索したが農家の住民には『殺されるからやめなさい』と施しの握り飯をわたされた。その後詳しく話を聞くと1週間で亡くなった者が何人もいる事や、朝の4時になると戸板に遺体と薪を載せて裏山で火葬しているとのことだった。

 

そこで、顔に墨を塗り、作業服に草履という出で立ちで浮浪者のフリをして、倉敷市内のベンチに転がり、警察に通報されるのを待っていて警察の取り調べの後に更生館職員へと引き渡された(強制収容所なので警察などを窓口にしてひきわたされていたようだ)

 

この当時、岡田更生館への収容を担当していた県職員の荻野半麓(おぎのはんろく・故)は当時を振り返り自著に記している。

 

当時の岡山市中心部は浮浪者の数は日を追う毎に膨れ上がり、最初は10人程度だったのだが1年後には700人を超えていた。進駐軍の残飯あさりや窃盗や売春なども行われ治安の悪化が懸念されていた。

 

そういった中、半ば非人道的とは思われたが、一般市井の安全を考えるとやむを得ないとし、複雑な心境を吐露していた。彼は事件発覚後は県職員を退職している。

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岡田更生館で行われた事とは?

大森記者らは岡田更生館に潜入すると信じられない光景を目の当たりにする。そこにはやせ細った収容者が沢山いたのだ。そこで行われていたのは過剰に収容された人間たち。49年に厚生省が行った調査では畳1畳あたりに1.3人とある。

 

岡田更生館の収容者は前述の調査の時点で275人に上り対して居住スペースは20室、畳数に直すとわずか215畳しかなく、1畳あたり1・3人の人間がひしめいていたそうです。

 

この数字は調査が入った段階のもので、大森記者らが潜入した時はもっと悲惨であったかもしれません。

 

満足な食事は与えられず、「朝夕はいつも水のような大根かゆ」「昼はパンか豆の入った黒い麦飯で病人の様にな人がうごめく」と当時の新聞にも掲載されており、調査段階で一番多かった死因は栄養失調によるものでした。

 

大森記者自身も潜入した際の夕食は「吐き気を催すような悪臭を放つ雑炊一杯だった」と記しています。

 

逃亡者は即つかまえて連れ戻され、職員から制裁を受けたとの事。木刀やゴム草履などが凶器として使用され、深夜にまでリンチは行われていたとの事。

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裏山で焼却

恐ろしいのは衛生状況だけではなかった。亡くなった浮浪者達は秘密裏に裏山の火葬場で焼却されていたのだ。浮浪者が浮浪者の遺体を焼くという非現実的な事がその場では日常だったようだ。

 

役場への死亡届は義務つけられていたとは思うが、どうやらそれも不正されたフシがあるようだ。大森記者らの調査では役場への死亡届と村の寺に収められている無縁仏の数が全く合わない事を確認していた。

 

通常、身寄りの無い人物であっても公的な施設での死亡なら無縁仏として祀られていてもおかしくはない。所が無縁仏の数が死亡届より過剰だったのだ。

 

後の調査で無縁仏にすらなり得なかった浮浪者がその場に埋葬されていることを突き止めているようだった。

冤罪と逮捕

こうして、大森記者の潜入によって数々の恐ろしい実態が暴露された。大森記者らは前もって打ち合わせをしており、定刻になると川又検事正と共に救助が来来る手はずだったが、証拠が無いと流石に踏み入る事はできない。そこで一度新聞社の取材として毎日新聞の記者が取材にきた。

 

そこで更生館がクロならば、おでこを触るというサインを前もって決めており、大森記者はこれを実行。脱出の手はずは整った。しかしその前に脱走を試みるとどのような仕打ちを受けるのかを確かめるために脱走を計画、大森記者は捕まりいよいよ身の危険が迫ると自身が記者であることを明かした。

 

更生館の指導員は大森記者に記者である証拠を見せろと言い、それに対して電話をさせてくれと上司に連絡をとった。その後検事正と新聞社のカメラマンらを含む一党で救助に向かい大森記者らは無事に脱出に成功。この時に数々の証拠となる写真も収められた。

 

すぐさま記事の執筆にはいり、大見出しで全国版に新聞を出した。しかしこの時にわざと潜入取材の内容を盛り込まず、あくまでも「疑いがある」と取られるような記事の書き方だったらしい。

 

それにより他のライバル紙はもとより、県や国などの動向を伺う意図があったのだ。これに対し、当時の岡山県知事も反論。当然知事としては『模範施設』の名を貶める内容の記事には憤慨して当然であったとおもわれる。

 

そこに毎日新聞は第二報で潜入捜査の記事をあげる。これによりライバル各社は何も言えなくなったらしい。

 

岡田更生館としては当然面白くないわけで、自らの悪事が露呈した状態である。すぐさま毎日新聞の記事にたいしてネガティブキャンペーンを開き、これに応戦。しかし一週間後には川又検事正が『岡田更生館は監獄部屋であった』と発言。これ以降国警が捜査を始める。

 

事が大きくなると更生館館長は会見の場を設け、警察や報道陣に国会議員を呼び自身の潔白を証明しようとした。その時に使ったのが『しつけ』の話だったようだ。

 

親が子を叱るのは当然と体罰の正当化を図った(今なら総スカンですな)らしい。そして収容者に対して自分が悪いことをしたか?を問うた所、誰も館長を責める者はいなかった。

 

しかし大森記者が自身が潜入捜査をしたことを明かし、再度館長の行いを問うた所、ぽつりぽつりと証言を得る事ができた。これにより館長はじめ指導員全員が逮捕されることとなる。

 

以上がざっとした岡田更生館事件の内容。更に詳しい内容はあるのだがそれは大森実氏の著書などを読む事をおすすめする。

 

では事件後の裁判や館長はどうなったか?について

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