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スティーブ・フラハティのベトナム戦争での手紙や記録・経歴は?親友ダニーとの友情!
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こんちはニッチマンです。

 

アンビリバボーで紹介されるスティーブとダニーの友情の物語奇跡体験アンビリバボーで紹介された戦争がきっかけで出会い、戦争で分かれる事になった少年のドキュメント。

1958年、アメリカ・サウスカロライナ州。この地に住むダニーの家を、近所に住むロンが訪ねてきた。ロンの家に養子として迎え入れた少年を紹介するためだ。少年の名はスティーブ。母は日本人、父はアメリカ人。日本で暮らしていたが、養子になるためアメリカへやってきた。当時、太平洋戦争の終戦から10年以上たってもなお、アメリカでは日本は敵という意識がまだあったため、日本人の母を持つスティーブはどの家にあいさつに行っても冷たくあしらわれていた。不安におびえているようなスティーブを見たダニーは、すぐに彼をキャッチボールに誘った。言葉は通じないが、ダニーは不安や孤独を感じているスティーブの支えになってあげたいと感じた。その後、同じ小学校に通うことになった2人。いつしか、スティーブにとってダニーの存在は欠かせないものとなっていった。 小学校を卒業すると、2人は別々の中学、高校に進学。スティーブはその後もたびたび差別的な扱いを受けるが、それでもダニーと会えば明るくいられた。そして、高校を卒業し1カ月後の1966年6月、スティーブはアメリカの市民権を取得し正式にアメリカ人となった。ここからスティーブとダニーの人生は大きく動き始める。またしても戦争が2人の運命を大きく動かすことになるのだった。

この話のスティーブとは、実は10年ほど前に日テレの元制作関係者の妻である面高直子さんが書いたヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだという本に登場します。

 

こちらの本自体はニッチマンは拝読したことはないのですが、この『ヨシアキ』こそ、アンビリバボーで紹介されたスティーブの日本名なのです。

彼の人生について海外メディアなどのドキュメントから得た情報をまとめてみました。※音声からのヒアリング違いで若干違約となってる可能性もありますことをご了承ください。

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スティーブ・フラハティのプロフィールと経歴

スティーブ・フラハティのプロフィール

スティーブ・フラハティのプロフィール
名前:スティーブ・フラハティ 
和名:後田義明
出身地:サウスカロライナ州レキシントン群(アメリカ国籍取得地と思われる、出生地は日本の大磯)
生年月日:1947年1月11日
没年:1969年3月25日
戦死地:ベトナム
所属:アメリカ軍
階級:軍曹
専門:軽歩兵
隊:第101空挺師団・第一大隊・第502歩兵
死因:任務中に殺害された。
授与賞:

★パープルハート
★戦闘歩兵バッジ
★射撃バッジ
★落下傘兵のバッジ
★国防局メダル
★ベトナムキャンペーンメダル
★ベトナムサービスメダル
★陸軍大統領ユニット引用
★ベトナムギャラントリークロス
★陸軍善行勲章
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スティーブ・フラハティの経歴

スティーブは1947年に、母、次恵が産み落としたアメリカ人と日本人のハーフ。その出自は決して幸せなものではなく、進駐軍の兵士との間に生まれますがそれは望まれていませんでした。母はダンスガール『日舞?)を生業としていたとの記述もありました。当時、ヨシアキと名付けられた彼は、孤児院へ預けられます。この孤児院は三菱財閥の令嬢であった澤田美嘉が起こした『エリザベス・サンダース・ホーム』でした。

 

父親憎しなれど血を分けた我が子。孤児院に預けたほうがヨシアキの幸せにつながると思い次惠としても断腸の思いであったのでしょう。

 

時は流れ、1957年、時は朝鮮戦争中。この時にロン・フラハティとヨシアキは初めて合うことになります。当時ロンは陸軍に従属している兵士でした。

ロンはヨシアキと一緒に野球を楽しみ、ロンはヨシアキを気に入り養子に迎えることを考えます。この時ヨシアキは9歳でした。

 

サウスカロライナ州へ戻ったロンはヨシアキを養子にすることを家族に話し、説得して彼を養子へ迎えます。スティーブ・フラハティという新たな名前をもらい養子に来た当初様子について親友のダン・ポーター(おそらくダニー)はこう述べています『英単語を50も覚えていない状態でしたが、彼は非常に外交的な性格で新しい生活でも直ぐに意気投合。言葉の壁を乗り越えコミュニケーションを取っていきました』

 

彼は大変人気者だった。スポーツ万能で野球・バスケットボール・フットボールなどでは大活躍をみせた。大柄な体躯ではないが、持ち前のスピードで相手を翻弄させていた。野球でも優れたピッチャーとして活躍していた。

 

その後、持ち前の運動能力の高さから野球での奨学金を得て、テネシー州のブライアンカレッジに進学。メジャーリーグのスカウトも彼の能力に注目していたが彼はメジャーリーガーにはならずある決断をした。

アメリカの為にベトナム戦争へ

日本の孤児院から引き取られたスティーブはアメリカの生活は日本では得難いものだった。その為に受け入れてくれたアメリカに恩返しがしたいと感じるようになっていったという。

 

義父や義母を始め多くの人が止めたが彼は1967年10月にアメリカ陸軍に志願しました。入隊してから1年後の1968年に軍曹に昇格。同時にベトナムのアシャ渓谷へ派遣されます。

 

アシャ渓谷は南ベトナムのラオス国境近くに位置し、南ベトナムとホーチミンを結ぶ重要なアクセスポイントとなってる地点。

 

当然ベトナム人はこの地を死守しようと躍起になっている地域であり、激戦区でもありました。1968年のテト攻勢をきっかけに北ベトナム軍を追い込む為にこの地を攻撃する必要がでてきた。

 

その時の敵勢力はおよそ100人。初の派遣から10ヶ月余り(6ヶ月という記事もあった)、空爆や陸戦などを行っていました。それは彼が101空挺団にはいる時に予想していたものより過酷で困難なものでした。

 

アシャ渓谷では丘陵地帯のジャングルであり、至る所に自分の背丈以上の草木が鬱蒼と茂って視界も悪く、そして地の利は北ベトナム軍にあったのです。

 

彼らは様々な場所に抜け道のトンネルを用意し、このネットワークを駆使してアメリカ軍を翻弄していきました。入り口も巧妙にカムフラージュされ、これを見つけるには人海戦術による目視での確認以外は有効な手段が見つからなかったそうです。

 

そのような状況でスティーブの心は疲弊仕切っていきました。そんな中、スティーブの心の拠り所にしていたのが祖国の家族や母からの手紙でした。またスティーブ自身も家族に手紙を書いて己を保っていました。

家族にあてたスティーブの手紙

スティーブが所属する隊では、オレンジ色の袋の中に家族に充てた手紙を書く為の筆記用具が用意されていました。あるものは遺書を、あるものは帰りたい願いをしたためていたのでしょう。

 

スティーブの手紙にはクリスマスについての記述もありました、1968年のクリスマスに書いたものです。詳しくは後述しますが、彼の手紙は戦地での出来事などがしたためられていました。

スティーブ・フラハティの戦死

過酷な環境の中、神経をすり減らしていくスティーブ。時には敵の弾丸から逃れる為に草むらの中で1週間過ごす事もあったそうです。しかしある日に起きた5時間に及ぶ銃撃戦の末にアメリカ軍は7名の戦死者をだします。そのうちの一人がスティーブでした。1969年の3月25日の事です。

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スティーブ・フハラティの手紙の内容は?

スティーブはベトナムで戦死しています。しかしその手紙はベトナム兵によって回収されていました。手紙を回収した兵士は手紙を軍のグエンプータット大佐に送られ、ラジオハノイの宣伝広報に使われたといわれています。

 

ラジオハノイでは手紙から一節を持ち上げて、アメリカ軍兵士に向かって戦闘の参加の拒否を呼びかけたとされています。これらの手紙は4通あり、その存在がわかったことで遺族のもとへと返されています。これはアメリカとベトナムの間で行われた公式なことで2012年の6月4日に当時のベトナム国防相とアメリカ国防長官が会談した折に返却されています。

 

これに対してアメリカ側もベトナム兵の日誌を返却しています。4通の手紙はそれぞれ母や隣人のバーンズ夫人、ワイアットというクラスメートの家族、そしてベティブキャナンというスティーブがベトナムへ行く前に付き合っていた女性の妹宛だった。

母、ルイス宛のスティーブの手紙

親父から電話があったら 瀕死の状態だったと伝えてくれ... でも大丈夫だった... 本当に運が良かったんだ またすぐに書くよ

我々の小隊は35人でスタートしたが19人で終わった 小隊長と分隊全員を失った

NVA(北ベトナム)兵士は死ぬまで戦ったが、一人は自分で罠にかかって、我々が彼に近づいた時、彼は自爆して、我々の部下を二人連れて行った。

この分を見るだけでも過酷な戦況が伝わってきますね。35人で19人しか残らなかった件。。。小隊をさらに分隊化した結果、小隊長が率いたグループが全滅したのでしょうか?

 

ベトナム兵のやり取りも平和な日本しか知らない我々は理解し難いのですが、彼らとしては祖国を守る為の英断だったのでしょうか?

 

恋人の妹、ベティに宛てたスティーブの手紙

私たちはNVA(北ベトナム)と激しい戦いをしてきました。多くの死傷者と死者を出しました それは私と私の部下のための試練の日々でした。私たちは、私が忘れたくないほど多くの死人や負傷者の遺体を引きずってきました。

 

素敵なカードをありがとう 私の惨めな一日をより良いものにしてくれました。しかし、私は血まみれの戦いを忘れることはないと思います。

 

銃弾が私を通り過ぎていくのを感じました。こんなに怖かったのは初めてです。さて.........閉店した方がいいな........あの丘に行く前に...

恋人の妹になぜ宛てたのか?ついては後述します。この手紙でも戦争の凄惨さがにじみでています。家族や知人から送られてくる手紙やポストカードが束の間の安らぎになっていたのがよく伝わって来る文面です。

 

最後の一文は死を覚悟している様にさえ思えます。

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